2016年に公開された映画「この世界の片隅に」
第2次世界大戦中の広島・呉を舞台に、激化していく世の中で大切なものを失いながらも日々の暮らしを紡いでいく女性すずの姿を丹念に描いた作品です。
作中では厳しくも優しいすずのお兄ちゃんとして浦野要一が登場していました。
しかし、戦争になり、出征していた兄の要一は戦死してしまいます。
戦死した知らせを聞いたすずは心の中で「お兄ちゃんが死んでよかった」と感じていました。
確かに、厳しい兄でしたが、すずは兄の優しさにも気付いていたはず。
なぜそのように感じてしまったのでしょうか。
そこで今回は、すすがお兄ちゃんが死んでよかったと思った理由と、戦死した要一の脳みそが石ころだった理由についても併せて解説します!
【この世界の片隅に】すずがお兄ちゃんが死んでよかったと思った理由は?
すずのお兄ちゃん浦野要一とは?
#この世界の片隅に を7回見てようやく発見した事があります。
それは、映画で一番のイケメンは、#浦野要一、#鬼いちゃん だという事です。
世が世であれば、一番人気のキャラだったのに……
ワニがお嫁さんだなんて可哀想w
お客さま200万人カウントダウン が成功しますように! pic.twitter.com/ZusR8tVuK2— 紅 三十郎 (@MacSanjuro) May 24, 2017
すずの兄である浦野要一は、短気ですぐ拳や怒声が出るため性格。
そのため、すずだけでなくわんぱくな水原哲ら男子からも怖れられる存在です。
いつも怒っている様子から、作中では通称「鬼(おに)いちゃん」とも呼ばれていました。
戦時中、陸軍軍人としてニューギニアに出征していたため、すずの結婚式には立ち会えず、1945年の2月に戦死の知らせが届き、他の戦死者達と共に葬儀が営まれています。
最終階級は上等兵。しかし戦死の報告とともに届いたものは石ころ一つしかなく、浦野家の人々は彼の死を実感できずにいます。
お兄ちゃんの死を喜んだのは精神的に追い込まれていたから?
この世界の片隅にを観た。徐々に逼迫していく台所事情にも、前向きに工夫して暮らしていく天然のすず。晴美と共に失った右手が、戦禍を直接描写した唯一の場面なので、愛する人達だけではなく絵を描く喜びさえも奪われた事が暗喩されて辛かった。戦争は世界の片隅に生きる無辜の民の幸せを壊すだけ。 pic.twitter.com/MpdFtFUxov
— ほりぃ (@seregemania) January 5, 2018
作中では兄が戦死したことを聞いてから、すずは「鬼いちゃんが死んで 良かったと思ってしまっている」と感じていました。
優しい心を持ったすずがどうしてこのような残酷な感情を持つことになったのでしょうか。
その理由は、戦争や様々な事故の影響で精神的に疲弊していたから。
すずは兄の訃報を聞いた際、次のような状況になっています。
- 義姉のけいこさんの娘はるみちゃんを不発弾により死なせている
- 不発弾により右手を失った自分の不幸を受け入れきれずにいる。
このような状況になり、精神的に追い込まれてしまったすずは”周りも不幸であれば己の慰めになる”と思うようになります。
そのため、死という鬼いちゃんに降りかかった不幸で、己の不幸が慰められて喜んでしまっているという心情を描写しているのです。
すずは周りの不幸を喜ぶようになってしまった?
『この世界の片隅に』を見て、このセリフを聞いた時は背筋が凍った。呉にいて空襲で苦しむ姉に言ったすみ(すずの妹)の言葉。なぜ広島市に空襲が無いかといえば、8月6日に人類初の核爆弾を投下する予定になっていて、街を破壊していたら無意味だからだ。(画はこうの史代さんの原作から。) pic.twitter.com/KRZUivwBXM
— 住友陽文 (@akisumitomo) August 10, 2017
すずは「兄が死んでしまってよかった」と思うまえに次のようにも感じています。
あれ以来 周作さんとろくに話していない
家が焼けたら出て行けばいいのに
わたしは 死んだ人が転がっていても平気で通り過ぎた
一つしか違わんすみちゃん
わかっている
歪んでいるのはわたしだ
まるで左手で書いた世界のように
あぁ 良かった
鬼いちゃんが死んで 良かったと思ってしまっている
「あれ以来周作さんとろくに話していない 家が焼けたら出ていけばいいのに」という部分は、通りすがりの空襲で家を壊された女の人と自分を重ねての感情。
このときはるみちゃんを死なしてしまった罪悪感からすずは北条家を出たがっています。
そのため、通りすがりの空襲で家を壊された女の人を見て、壊してもらえて出ていく口実ができてよかったろうにという歪んだ思考が浮かんでいます。
また、手の怪我をして以来周作と話していないという点は、家を出たいという心境から向き合う事を避けていることを表しています。
次に「わたしは 死んだ人が転がっていても平気で通り過ぎた 一つしか違わんすみちゃん」という部分。
これは、ひとつしか違わないすみちゃんはちゃんと死んだ人を参っているのに自分は平気で通り過ぎているという他人との比較をしている描写。
己の不幸の事しか考えられず周りに目がいかない自分の歪みの自覚を表しています。
最後に「わかっている 歪んでいるのはわたしだ まるで左手で書いた世界のように」という部分。
左手で書いた歪んだ絵と、右手を失った己の不幸を受け入れきれずに、他人の不幸を喜ぶ歪んだ思考を対比させている表現です。
自分の不幸を受け止めきれずに悩むすずの心理的描写を丁寧に表しているシーンだったんですね。
【この世界の片隅に】お兄ちゃんの脳みそが石ころだった訳は?
#この世界の片隅に
映画で観た方もドラマで観た方も、原作の漫画下巻にあるすずさんが描いた「鬼イチャン冒険記」見てほしいです。
石ころで帰ってきた兄要一にすずさんが思いを馳せてコミカルに描いてます。
この世界の片隅で鬼イチャンは生きてるんだなあ、と思いが膨らみます。 pic.twitter.com/Qu3lO77yHq— 隠居 (@sub_mondokoro) September 17, 2018
すずの兄・要一は陸軍軍人としてニューギニアに出征していましたが、戦死したという知らせが届き、昭和20年2月に合同慰霊祭が行われています。
戦死の報告とともに届いたものは遺骨がわりの石ころ一つだったため、はっきりと死亡したという描写はありません。
そのため、すずをはじめとする浦野家の人々も、彼の死を実感できずにいました。
また、兄の遺骨が石ころだったというのは、戦争のおぞましさを表しているから。
本来であれば、ちゃんと火葬し、遺骨を遺族に届けるのが一般的ですが、舞台は戦時中。
多数の死亡者が出ており、誰が誰の死体かもわからない状況で、その遺骨も判別ができない状況。
それゆえに、遺族に送られるのは申し訳代わりの石ころということだったのです。
この作品ではそれをあまり深刻になりすぎないようにギャグっぽく描写していました。
まとめ
いかがだったでしょうか。すすがお兄ちゃんが死んでよかったと思った理由と、戦死した要一の脳みそが石ころだった理由についても併せて解説しました。
戦時中や不慮の事故により、すずの精神的な安定もかなり崩されてしまったようですね。やはり戦争は怖いものです。
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>>【この世界の片隅に】周作がすずと結婚した理由は?拳を握りしめた理由や傘の意味についても
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※本ページの情報は2021年4月時点のものです。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました!
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